多くの者は考えることをしたくないので、逃れるために本を読む。

多くの者は考えることをしたくないので、逃れるために本を読む。

私は高校生のときにユダヤ人の格言集のような本に出会って、以来20年以上付き合っています。

といっても、けっこういい加減で、神の存在を信じているわけでもなく、もちろん戒律を守った生活をしているわけではありません。

自分に都合にあわせて、気に入った格言をメモっておいたり、たまに本を読み返したりしている程度で、どれほど実践できているんだと、問われれば恥ずかしい限りなのですが、それでも若いころに自分に大きな影響を与えてくれた「思想」であるといっても良いと思います。

ユダヤ人というと金儲けに長けているとか、ひどいのになると金貸しが多いとか、陰謀説とかいろいろと良くないイメージが先行しているかもしれませんが、ユダヤ教(というかユダヤ人社会)で浸透している格言には、我々日本人に考え方が近かったり、非常に参考になることも多いと思います。

今日は、その中でも「多くの者は考えることをしたくないので、逃れるために本を読む。」という格言を紹介したいと思います。

これって、まさに以前の自分自身の事だったんですよ。

何か仕事とかで悩んだり、辛いことがあったりしたら、私は人に相談するよりも「本に回答を求める」タイプでした。

本の中にきっと答えがあると信じて、何冊も何冊もむさぼり読んでいた時代がありました。

今でもその傾向があるかもしれませんが、少なくとも無駄に本を読むことだけに没頭することはなくなりました。

日本通でもあるユダヤ教のラビ(キリスト教でいうところの牧師さんのようなもの)マービン・トケイヤー氏は、書物の中でこう語っています。

本を読むことと、本から学ぶこととは、二つのちがうことである。たとえば『聖書』は読むものではなく、学ぶものである。
現代では、人びとは数万という新聞や雑誌や本に取り巻かれて生活している。情報の氾濫だ。そして、人びとは本を読んでも、自分で考えることをしない。
〈本を読むだけで考えないのなら、いくら読んでも、口パ(愚か者) が本を大量にのせて歩いているのと変わらない〉と、『タルムード』は言っている。

※「タルムード」とはユダヤ教徒の生活・信仰の基となる聖典

私達は、うっかりするとただ本や新聞を読んだだけで、わかったような気になってしまいがちですが、本当に理解するには実際に自分で実践してみたり、体験してみることが必要な場合もあります。

実際に自分でやってみるということになれば、多かれ少なかれ考えたり、頭に汗を書いたりという作業が発生しますから、これはただ読書をするだけよりはしんどいです。

実際にやってみたら、本に書かれていることとは違った結果が帰ってくることなんて、日超茶飯事ですから。。。

今年の正月休みは9連休とか長期の休みをとれる人も多いようですが、「この機会に読書を」と考える人もいると思います。

読書をするときにこの行為が「考えることから逃れるための読書」になっていないか確認してみるのも良いかもしれませんね。

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